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高階秀爾(東京大学名誉教授/大原美術館館長) 第一部 宇佐美圭司《きずな》について   講演 鈴木泉(人文社会系研究科教授)   講演 加治屋健司(総合文化研究科准教授)   ディスカッション 鈴木泉+加治屋健司+髙岸輝(人文社会系研究科准教授) 第二部 宇佐美圭司と戦後日本美術   講演・ディスカッション 岡﨑乾二郎(造形作家/武蔵野美術大学客員教授)+林道郎(上智大学国際教養学部教授) 第三部 東京大学と文化資源   講演 木下直之(人文社会系研究科教授/静岡県立美術館館長)   講演 佐藤康宏(人文社会系研究科教授)   ディスカッション 木下直之+佐藤康宏+小林真理(人文社会系研究科教授) 全体討議   開会の辞 五神真 東京大学を代表して、宇佐美圭司氏と御遺族、関係者、また貴重な作品に触れる機会を失ってしまった全ての方々にお詫び申し上げます。中央食堂竣工から40年間、その空間に溶け込んでいた作品を、情報共有の不徹底と文化財への認識不足により失ってしまいました。食堂を管理する本学としては、所有者である生協と密にコミュニケーションを取り、作品の価値について共有するべきでした。 私は1978年からずっと本郷キャンパスで過ごしていますが、研究室の近くにある中央食堂は、昼食や夕食、学生と共に語らう場として親しんできました。リニューアル後の食堂を見て、あの作品がどうなったのか気になっていましたが、廃棄されたと知り、驚くとともに落胆しました。 私にとって、宇佐美氏は著書『デュシャン』を通じて思想家として心に残っています。教養学部生だった頃、私はデュシャン「大ガラス」のレプリカ制作の計画を聞き、難解で複雑な作品を複製するという大胆な試みに心を奪われました。1984年、宇佐美氏が『デュシャン』を出版したと知り、私はすぐに購入しました。《きずな》はこの本の執筆準備をされる中で制作されていましたが、先日この本を読み直し、当時気鋭の画家であった宇佐美氏の思いに再び接して、今回の作品消失について一層の責任を感じています。 このシンポジウムを第一歩として、学内の学術文化資産について、情報共有と適切な保存・管理を徹底し、同様の過ちを繰り返さないよう努めてまいります。 特別講演 宇佐美圭司氏と《きずな》の思い出 高階秀爾 1977年頃、文学部の教員だった私に東大生協から連絡があり、新しい食堂に壁画を入れるならどんな作品がよいかと相談されました。鑑賞のための場ではなく、学生が食事のために集まる場に相応しい作品について思いを巡らした私は、3つの条件を定めました。1.優れた作品であること、2.現代性があること、3.知的刺激を含むこと。そこで自然に頭に浮かんできたのが、かねてより親交もあった宇佐美さんでした。 特段意識はしなくてもちらりとそれが見える関係にあること、それが食堂の壁画として重要な点だと思います。食堂の学生と壁の作品が、互いに無視しながら、しかし無意識に認識するという不思議な関係性。それを生み出すのが芸術作品の一つの力です。施設の中や街の中にあって、単なる装飾ではなく、そこにいる人々を不思議な形で結びつける。人間関係を結びつけるものを絆と呼びますが、《きずな》はまさにそのような作品だったと思います。 第一部 講演 《きずな》について私が知っている二、三の事柄 鈴木 泉 作品は物質ですからいずれ消滅しますが、作品が散文的な仕方で廃棄されたことに白々としたものを感じます。歴史上、文化財の破壊は主に政治的や宗教的な理由で行われてきましたが、今回の破壊はただただ散文的でした。制度や組織の問題、単なる無知の問題です。白々とした知性の劣化は、新しい食堂の白々と明るい空間に通ずるかもしれません。知性の劣化を驚き、恥じ入るばかりです。 《きずな》には、大きさ、転換点、円形と特徴的な要素があります。4×4mという非常に大きな作品であり、身体モデルへの回帰へつながる転換点の作品であり、これ以降の作品では表現される身体が円形に密封されることになります。もしかすると中央食堂の丸みのある壁面に触発されたのかもしれません。形式面から見ても《きずな》は宇佐美作品の中で特異で重要な作品でした。そして、この時期に至るまでの理論的言説も、制度に対する抵抗を美術の側から提起する先駆的かつ重要なものでした。 安田講堂事件から50年がたちます。東大ではあまり触れられない歴史ですが、この建物にある記憶は共有すべきです。《きずな》にはベトナム戦争、ワッツ暴動、安田講堂事件が連鎖するように表れています。安田講堂の下で見る以上、それらの出来事とのつながりを意識せざるを得ない。そのような大切なモニュメントを失ってしまったわけですが、この作品が中央食堂に存在していたことは奇跡的な僥倖でした。 美術史のなかの《きずな》 加治屋健司 宇佐美さんは1963年に初の個展を南画廊で開きました。現代美術を牽引した画廊で無名の新人が個展をできたのは、稀有な才能があったか らこそです。その後、1965年のワッツ暴動の写真をもとに、人型を使う作品の制作を始めます。かがむ、たじろぐ、走る、投げる、と4つの動作を表しますが、いずれも頭はなく、人の形自体への関心が窺えます。レーザーで人型を表す先駆的な作品も手がけました。複数の鏡でレーザー光を反射させ、鑑賞者が間に入ることで光の錯綜が消えて人型の関係が変わります。絵画と違い、レーザー作品では作者の制御が限定的です。完結した構造から作品がいかに抜け出るかを考えたのではないでしょうか。 1971年に行った個展では、分節化された人型の部分が構造(ゴースト)を求めて彷徨うという「ゴースト・プラン」シリーズを発表します。《きずな》もこのシリーズの一つ。この作品では、先述の4動作の人型がいくつも描かれ、各々が形の共通項に応じて色つきの線で結ばれます。共通項は完全に、それ以外は不完全に描かれています。共通性を持つものが完全であり、単独のものは不完全である。そうした関係性から《きずな》の題名がついたと考えられます。シリーズの他作品よりも簡略化されており、学生が考えやすいようにという教育的な意図が見て取れます。宇佐美さんは、学生たちが食事をしながら関係性を築く場に作品があることを想定して制作したのではないでしょうか。 第一部 ディスカッション 宇佐美圭司《きずな》について 鈴木 泉+加治屋健司+髙岸 輝 髙岸 両先生からは、《きずな》へ収斂する宇佐美さんの哲学者の部分、実作者としての部分が語られました。 鈴木 普通に鑑賞しただけでは、知的操作が施されていることに気づきませんが、加治屋先生の分析でそれがわかりました。《きずな》は内因性を持ちますが、自立性を持ちつつも閉じてはいない。閉じた内在では外との関わりで生じる制度や構造の変化が見えてきません。作品が自立的であること、開かれることを、彼はどう考えていたのでしょうか。 加治屋 宇佐美さんは哲学や社会問題、建築、音楽など、美術以外の事象に関心を持ち、様々な分野の人と交流し、それらを作品に取り入れていました。外部へ開かれた人だったと言えます。一つ鈴木先生に聞きたいことがあります。昔から哲学者の関心を惹き付けるアーティストがいますね。宇佐美さんはもっと哲学者の関心を集めてよいアーティストではなかったかと思うのです。いかがでしょう。 鈴木 宇佐美さんの考えは非常に先駆的で、70年代当時は伝わらなかった可能性があります。当時のパラダイムでは十分には理解できず、絵の構造理解の枠組みも多くの人にはわからなかったでしょう。むしろ今こそその言説が読まれるべきだと痛感します。作家と批評家、哲学者が一人の中に併存する稀有な人でした。 髙岸 《きずな》は難解さを比較的噛み砕いた作品だったとのこと。宇佐美さんは中央食堂で何を提示したかったんでしょうか。 加治屋 神戸須磨離宮公園などの例を見ると、場のためというより自身の制作の展開の中で作品を作っています。学生や教職員が集まる大食堂という「関係」の場と、「関係」や「連帯」という自分の考えがつながったのではないでしょうか。 髙岸 宇佐美さんの著書は難解ですが、古美術に言及する著作では目から鱗が落ちる視角が頻出します。たとえば「平治物語絵巻」に関する記述では、御所を襲撃する武士の躍動と、斜め45度に画面を区切る門の不動とが対照的だ、と興味深い指摘をしている。グリッドや時間の重なりで画面を展開することを古美術から吸い上げようとしていたと思います。 鈴木 今回の出来事は追悼や謝罪だけで終えてはいけません。いくつも読み甲斐がある重要な作品がここにあったことを伝えるため、複製を残すことを一教員として提案させていただきます。 第二部 ディスカッション 宇佐美圭司と戦後日本美術 岡﨑乾二郎+林道郎 林 宇佐美さんと岡﨑さんは以前から深い関係にあり、生前最後のインタビューも岡﨑さんによるものでした。教師と生徒という関係を超えた、作家同士の読み応えある対話でしたね。 岡﨑 宇佐美さんとは1977年頃に初めて会いました。彼には作品を描かなくなった時期があり、それは僕のせいだと冗談で言われたものです。《きずな》はそんな時期に作られた作品です。  今回の事件発覚の契機は、和歌山県立近代美術館が宇佐美作品を調べて東大生協ウェブのQ&A欄を読んだことでした。作品の行方を訊ねる学生の質問に、破棄したとの回答が記されていた。これは情報空間の出来事です。その情報を信じていま話していますが、物的証拠はない。いわば言説の中で出来事が展開している。観客が知らないうちに組織されるという仕組みが宇佐美作品の特徴ですが、似たものを感じます。彼に仕込まれて話している感覚さえあります。  宇佐美圭司はときにデザイン的といわれます。ゆえに言説が積み重ねられず、それが破棄につながった可能性がある。70年代美術の回顧で宇佐美圭司は出てきません。出てくるのは「もの派」。宇佐美さんたちの影響を受けた僕は「ポストもの派」といわれる。それが美術史です。勝手な言説の影響が今回の顛末に表れています。 林 もの派は現象学の枠から抜け出ておらず、それを構造主義的に考える宇佐美さんのような言説は70年代にはなかった。美術史や美術批評の責任だと思います。 岡﨑 絵画の復権が起きて本物を見る目があるのはどちらかという単純な議論になり、多様性を持つものは不純とされて排除されてしまう。それが《きずな》ができた頃の閉塞感で、「閉鎖系」という宇佐美さんの言葉とつながります。 林 作品が内因的で転回可能な構造を持つことが彼にとっては閉鎖系。それをまず追求しなければ、という問題意識があり、その後、閉鎖系の閉鎖性に気づいたという感じがします。 岡﨑 システムは自分が認識できるものしか認識できず、異質なパラダイムは理解できない。それが一般的な閉鎖系で、バリエーションはシステムに予告されるという議論となる。どう外すかというと、システムを別のシステムへ対峙させ相同関係やズレを発生させる話になる。僕はそれを正しいと思わないですけどね。 林 岡﨑さんの話で、宇佐美圭司の読解の可能性がまだいろいろあることがわかったと思います。 第三部 講演 ものがそこにあることとそれが美術であることについて 木下直之 私はキャンパス計画室の一員でした。中央食堂の改修もそこで協議したはずですが、絵画の問題は出てきませんでした。建物の外部は計画室が確認しますが、内部は管轄外です。外から見える形に重心が置かれがちで内部に対する認識が弱いことは、この事件の一因かと思います。 私は1998年に「博士の肖像」展を開催しました。学内の随所にある肖像画や肖像彫刻は、誰かの身代わりであるがゆえに忘れられ、移動します。その現実を知り、立ち位置を調べました。肖像が様々な扱いを受ける理由は、所有権が曖昧であることです。大学側が管理は行いますが、基本的には有志が置いていったもの、という意味合いが強いのです。 明治9年、明治政府が初の美術学校として開校した工部美術学校は、工学部という形で東大に吸収され、明治初期の作品が伝わりました。授業で使った作品には貴重なものも含まれます。落書きされるなどひどい扱いを受けていましたが、建築学科の先生を中心に収蔵物の調査を行って保存の方針が立ち、現在はアーカイブとして公開されています。 大学は美術館と違い、作品鑑賞の場ではありません。様々なものが様々な理由で存在を始め、多くが見えなくなる状況の中、今後どうすべきか。語ることです。シンポジウムの趣旨が「失われたが語り継ごう」であれば、それは《きずな》だけの問題ではありません。見えてはいるがわからないものに関心を向け、何であるかを考えることが重要です。 美術が捨てられるとき 佐藤康宏 美術は歴史の荒波のなかで捨てられてきました。8世紀の聖像否定運動、ナチスによる新しい芸術の追放、最近だとバーミヤンの石像破壊 ……。ただ、《きずな》はこれらと事情が違います。近い例を紹介します。 一つは伊藤若冲による金比羅宮奥書院の障壁画です。劣化が進んだこの絵は、1844年に一部を残して撤去されました。若冲の絵ですら捨てられた。日常の中の絵が傷んで捨てられる例は無数でしょう。次に旧東京都庁の壁画です。岡本太郎の作品は、庁舎移転の際、建物とともに壊されました。タイルを取り出すのが困難という理由でしたが、保存の意志があればできたことです。3つ目はジェラール・ミンコフのVideo Blind Piece。TV受像機14台を地面に秩序づけて埋めた作品は、ゴミだと思った庭師に撤去されました。美術と見なされなかったゆえの廃棄。これは本質的です。中央食堂に関わる多くの人は《きずな》を備品と見ていた。もう一例。高知県立大学は新図書館建設にあたり、建物の狭さから3.8万冊の蔵書を焼却しました。大学名入りの本の売却ができず、譲渡用の一時保管場所もなかったそうですが、他の道はあったはずです。 本や絵画は単なるモノでなく人の精神に影響するものだと教えるのが大学です。書物を焼き、美術を捨てるのは、精神に関わる事柄など無視していいという態度を表明し、そうした毒草の繁茂に力を貸すことに等しい。美術が捨てられるときは大学が壊れるときでもあります。 第三部 ディスカッション 東京大学と文化資源 木下直之+佐藤康宏+小林真理 小林 この事件を知って感じたのは、「所有権の絶対性」です。所有権があれば何をしてもいいという原則が、資本主義社会の確立につれて共有されてきました。この絶対性を制限する働きを持つ「文化的な価値」を軽んじる出来事が大学で起きたのが問題です。《きずな》が大事な作品だったのはよくわかります。では、無名な人の作品なら廃棄してよいのか。大学という場で何を残すのか。専門家は学内にいるのに情報が共有されない現状があるようです。こうした問題を起こさないためにどうすべきでしょうか。 木下 組織は問題を起こさない仕組みづくりに進みがちですが、完璧な仕組みは絶対できません。思うのは、まず何が起こったのかという検証が必須だということ。本当に廃棄されたのか、どのように廃棄されたのか。佐藤先生の演題は「美術を捨てるとき」ともいえます。美術と認めずに捨てたのでなく、美術として認めた上で捨てた可能性も、美術だから捨てた可能性もある。考えるべきことはいろいろあります。 佐藤 学内文化資源についての教育が必要でしょう。文化財保護の法律は未来の享受者を想定しています。いまあるものを使い果たさず、後世の人も使えるようにしよう、という考えを広める必要があると思います。 小林 重要文化財を指定する場合は、所有者に可否を確認します。所有権の絶対性があるためです。指定されて自由に扱えなくなることを嫌がる所有者もいる。その意識を凌駕するような文化的価値の可能性を、文学部の我々が普及させるべきでしょう。制度整備より、文化を大事にする意識を醸成すべきです。東大の文化資源を将来のために活かすにはどうすればよいでしょうか。 木下 文化資源を探し出し、評価し、それが何であるかを考える。その試みを繰り返すことでしょう。それをいろいろな人がいろいろな観点から進めるしかない。 佐藤 すでになくしてしまったものは多くあります。学内の文化資源を調査して総目録化する必要があると思います。 小林 私の研究室では、事件後、東大にどんな面白いものがあるかを調べる試みを始めました。学生たちが自発的にいろいろなものを探し出しています。文化資源に関する相談窓口も必要ですね。 全体討議 《きずな》と東京大学 三浦 それぞれの話を聞いた上で感じたことなどを一言ずつお願いいたします。 高階 宇佐美作品の知的分析が見事だった一方、感性の側面、色彩の問題についてはあまり触れられませんでした。私はあの色彩は世界の戦後美術の中でも独特だと思うのです。知的構成であると同時に、広い意味での飾り、装飾的な力があったと思う。それは日本的な特性だという気もするのです。 髙岸 4m四方の画面が公共的な場の壁面にかけられた状況から私が連想したのは、密教の両界曼陀羅でした。人の形をした仏菩薩が秩序に従って並んでいるものです。宇佐美作品の色彩が日本美術の伝統とつながるかは難しいところですが、仏画の本来的な色である紺丹緑紫の4色が繧繝彩色のようにパステル調になっていくのは曼陀羅に共通するようにも感じました。 岡﨑 宇佐美さんのアトリエでは、刷毛をすべてきれいにしていました。常に洗っていないとだめなくらい、非常に精密な色使いをしていたんですね。色環を構造主義的に考えると、赤と青を結ぶ紫の部分が難しかったでしょう。あと、後期になって色の使い方が変わりましたね。悲壮感が漂う色調や、古典絵画を思わせる色を使うようになりました。 林 以前はライトブルーと明るい赤とレモンイエローが主でしたが、《きずな》ではオレンジに近い赤が使われていて、その後の作品につながるようです。ご本人は、形で色を閉じ込めることを始めた、という言い方をしていました。 加治屋 色彩が注目される時代ではなかった70年代にあのような表現がなされたことに意味があると思います。「ゴースト・プラン」の他作品では水色の印象が強いですが、《きずな》はもっと落ち着いた印象があります。 岡﨑 初期の人型では青が特徴的ですね。「新橋ブルー」という日本のメーカーの色です。それに合う朱色も使っていて、ある意味日本的な色使いだったかもしれません。 鈴木 今日の話で一番気になったのは、美術作品をどういうレベルで保護するか。優れた美術作品は当然残すわけですが、そうでない作品はどうするのか。まさに美術という制度の問題です。 岡﨑 作品を捨てると損することを一人ひとりが知ればいいと思うんです。おまえが捨てるなら俺は保存する、宇佐美圭司美術館をつくるぞという覚悟が足りなかったと反省しています。現代美術は、言説で一般的な知として語ろうとするせいで、議論を避け、ジャーナリスティックな言葉だけが増えるのが問題です。振り返ると、80年代以降の宇佐美圭司はすでにオーソライズされていて、若い人の議論対象ではなかった。当時すでに宇佐美圭司の議論はされていないんですよね。 林 私が大学に入学した頃は、宇佐美さんの本が出るたびに興奮して読みました。85年に日本を離れ、15年して戻ると事情が変わっていた。若い頃の記憶では重要な人だったのに語られなくなっていて、言説の変化を実感しました。 三浦 駒場では、価値のある美術作品かどうか迷ったら美術博物館に相談するという慣習が以前からあります。それが本郷になかったのが残念です。中央食堂に作品名などを記すプレートがなかったのも問題でした。 木下 実は後ろの小杉壁画も何も表示がないですね。学内にあるものが何であるか、チェックする仕組みがないのは問題です。でも、徹底的に台帳をつくって序列をつける話になりかねず、作品の優劣を誰が決めるのかが問題になる。個別の議論を積み重ねるしかないでしょう。 岡﨑 「なんでも鑑定団」というTV番組に出せばよかったんです。何もせずにただ捨てたというのが信じられません。 小林 専門家に聞けばいいのにそうしなかったのは、東日本大震災を機に、科学などの専門家に対する信頼が揺らいだせいもあるのかもしれません。今日の話は相当難しかったので思うのですが、美術と社会をつなぐ人が必要でしょう。 佐藤 改めて思うのは《きずな》は本当に放置されていたということです。保存措置が講じられず、逆に傷つけたりもされなかった。両方の意味でかわいそうな状態でした。作品について一つ妄想を述べますと、《きずな》を含む人型のシリーズは、四次元空間に住む男が三次元空間に現れたらどう見えるかを描いている、と見ることができないでしょうか。私たちが二次元世界では厚みを失い、平面として写るように、四次元の人は、例えばこんなふうに見えるんじゃないか。勝手な解釈ですが、そう見ることもできる作品でした。 三浦 今日は美術館の館長が二人いますが、美術館における現代美術の保存はいかがでしょうか。 高階 現代の作品には複数の素材が使われていて、保存は大変難しい問題です。一つの素材は長持ちしても、もう一つは長持ちしないということです。そして、作家によっては時間とともに状態が変わって構わないという人がいる。そういう作品の状態を保つかどうかという問題もあります。日本美術では、銀が焼けて黒ずむことを作家が予想して作る場合もありました。作品に応じて考えるしかありません。 木下 静岡県立美術館の収蔵庫はすでにいっぱいです。日本の多くの美術館が直面しているのはスペースの問題ですね。美術館とは壁を持つ建物ですが、今は別に壁を必要としない表現はいくらでもあります。美術館は美術の拠点の一つにすぎず、美術は美術館だけではカバーしきれない、という感じがします。 岡﨑 今のテクノロジーを思えば、美術作品を美術館だけで持たなくていい。グーグルアースに美術情報がアーカイブされて公開されればいい。問題は「情報の共有」です。この時代に《きずな》ではなぜそれができなかったのか、疑問です。 三浦 貴重な作品を語り続けて記憶にとどめること。そして、学内の文化資産をどのようにチェックし、残すかを厳しく検討していくこと。この2つを本日の共有認識として、シンポジウムを終了いたします。 ※東京大学は、本シンポジウムのディスカッションを受け、文化資産に対する学内教職員の意識啓発を、研修等の機会を活用して進めていきます。また、学内に保有する文化資産について適切に把握し、それらの取扱いについて確認・相談できる体制を整備する予定です。 関連リンク 広報誌 「淡青」38号 淡青 美術と文学 このページの内容に関する問い合わせは本部広報課までお願いします。 お問い合わせ ソーシャルメディア 東京大学における災害時の情報発信 サイトマップ サイトポリシー プライバシーポリシー 採用情報 UTokyo Portal utelecon よくある質問 本サイトの管理・運営は広報室が行なっています。 各ページの内容に関連するお問い合わせは、当該ページに記載の問い合わせ先までお願いします。 アクセス・キャンパスマップ © The University of Tokyo 柏キャンパス 本郷キャンパス 駒場キャンパス アクセス・キャンパスマップ 閉じる 戻る アクセス・キャンパスマップ 閉じる 戻る アクセス・キャンパスマップ 閉じる 戻る アクセス・キャンパスマップ 閉じる

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